台北旅行で何度も訪れているのに、まだ大稻埕の本当の魅力を知らない。
そんな台湾リピーターにこそ歩いてほしいのが、「台湾茶の街」としての大稻埕です。
多くの観光客は迪化街を、
- レトロな街並み
- おしゃれなカフェ
- ドライフルーツや乾物の買い物
を楽しむ場所として訪れます。
もちろんそれも大稻埕の魅力です。
しかし実は、大稻埕は台湾茶が世界へ羽ばたいた歴史の舞台でもあります。
現在、日本人観光客に人気の文山包種茶や高山茶、東方美人茶。
その礎となった茶貿易の中心地こそが大稻埕でした。
この記事では、なぜ大稻埕が台湾茶の街になったのか、そして日本との意外な関係についても紹介します。
台湾旅行2回目、3回目の人ほど楽しめる、大稻埕のもう一つの物語です。
大稻埕は「台湾茶の産地」ではなく「台湾茶の玄関口」だった
まず知っておきたいのは、大稻埕そのものは茶葉の産地ではないということです。
現在の台湾茶の名産地として知られる
- 文山(木柵・深坑・石碇)
- 南港
- 三峡
- 桃園大溪
などの山間部で生産された茶葉が、大稻埕へ集められていました。
ではなぜ大稻埕だったのでしょうか。
理由は立地です。
当時の台湾では陸路よりも河川輸送が発達していました。
山で収穫された茶葉は淡水河の支流を利用して大稻埕へ運ばれます。
そして大稻埕で、
- 茶葉の選別
- 品質管理
- 梱包
- 輸出
が行われました。
現在で例えるなら、
大稻埕は台湾茶の物流センター兼商社街
だったのです。
今でも迪化街に茶行が多く残るのは、その名残です。

大稻埕発展の転機となった淡水港の開港
大稻埕が台湾茶の街になった最大のきっかけは1860年にあります。
天津条約によって淡水港が開港し、台湾北部の国際貿易が本格化しました。
それまで小さな商業集落だった大稻埕には、
- イギリス
- アメリカ
- ドイツ
などの外国商人が進出します。
その中で特に注目されたのが台湾北部の茶葉でした。
当時の欧米では紅茶文化が広がり、新たな茶葉産地が求められていました。
台湾北部で生産される烏龍茶は品質が高く、海外市場でも評価されるようになります。
そして港に近い大稻埕が、自然と茶貿易の中心地になっていったのです。
台湾茶を世界へ広めたイギリス人商人ジョン・ドッド
大稻埕の歴史を語るうえで欠かせない人物がいます。
イギリス人商人のジョン・ドッドです。
1860年代後半、ドッドは台湾北部で栽培されていた茶葉に大きな可能性を感じました。
彼は茶農家へ茶樹栽培を奨励し、海外輸出の仕組みを整えていきます。
1869年には台湾産烏龍茶がアメリカへ輸出され、大きな成功を収めました。
このとき使われた名称が、
Formosa Tea(フォルモサティー)
です。

フォルモサとは、ポルトガル人が台湾を「Ilha Formosa(麗しの島)」と呼んだことに由来する、かつての台湾の呼び名です。
つまり、
Formosa Tea = 台湾茶
ということになります。
今でこそ台湾茶は世界的なブランドですが、その始まりは大稻埕から船積みされた茶葉だったのです。
「南糖北茶」の時代、大稻埕は台湾有数の商業都市だった
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、台湾経済を支えた二大輸出品がありました。
それが、
- 南部の砂糖
- 北部の茶葉
です。
当時は「南糖北茶」と呼ばれるほど重要な産業でした。
茶葉輸出によって大稻埕は急速に発展します。
最盛期には200軒以上の茶商や茶行が集まり、台湾有数の商業都市となりました。
現在の迪化街に残る美しい商家建築やバロック様式の建物の多くも、この時代の繁栄によって建てられたものです。
観光客の多くは建物を「レトロでおしゃれ」と感じますが、その背景には台湾茶が生んだ莫大な富がありました。
台湾茶リピーターなら知っておきたい「包種茶」の物語
台湾茶好きならぜひ覚えておきたいのが包種茶です。
実は包種茶と大稻埕には深い関係があります。
包種茶とはどんなお茶?
包種茶(ほうしゅちゃ)は台湾を代表する烏龍茶のひとつです。
特徴は、
- 発酵度が低い
- 花のような香り
- 爽やかな飲み口
- 渋みが少ない
こと。
高山茶よりも歴史が古く、現在でも台湾を代表する銘茶として親しまれています。
日本人に例えるなら、
緑茶の爽やかさと烏龍茶の華やかさを合わせたようなお茶です。
初めて台湾茶を飲む人にもおすすめされています。
なぜ「包種茶」と呼ばれるのか
包種茶の名前の由来として有名なのが包装方法です。
かつて茶葉は四角い紙で包まれ、茶商の印を押して販売されていました。
この「包んで販売する」という習慣から、
包種茶
という名前が生まれたとされています。
今では当たり前に聞く名前ですが、その背景には大稻埕の茶商文化がありました。
包種茶を育てたのは大稻埕の茶商たちだった
19世紀後半になると、烏龍茶の輸出市場は徐々に変化します。
そこで茶商たちは新しい商品開発を進めました。
その中から発展したのが包種茶です。
大稻埕の茶商たちは品質向上を重ねながら包種茶を海外へ輸出しました。
現在、日本人観光客が茶行で見かける文山包種茶のルーツも、この時代にあります。
つまり、
包種茶の歴史をたどると大稻埕にたどり着く
のです。
実は日本とも深い関係がある台湾茶
ここからが日本人旅行者にとって特に興味深い部分です。
実は台湾茶と日本には100年以上続く関係があります。
日本統治時代に台湾茶は大きく発展した
1895年、日本統治時代が始まります。
この時代、台湾では茶業の近代化が進められました。
- 茶業試験場の設立
- 茶樹品種の研究
- 製茶技術の改良
- 品質管理制度の整備
などが進みます。
現在の台湾茶が世界的に評価される品質を持つようになった背景には、この時代の技術改良があります。

今飲んでいる包種茶にも日本との縁がある
現在の文山包種茶の製法は、日本統治時代に整理・普及されました。
つまり、
今、日本人観光客が大稻埕の茶行で飲んでいる包種茶には、日本との歴史も刻まれているのです。
これは台湾旅行のガイドブックではあまり紹介されない視点ですが、歴史好きなリピーターには非常に興味深いポイントでしょう。
台湾リピーターにおすすめしたい「茶の街」としての大稻埕散歩

もしあなたが九份や永康街、西門町には何度も行ったことがあるなら、次は少し違う視点で大稻埕を歩いてみてください。
例えば、
茶行の看板を見る。
商家建築を見る。
古い倉庫を見る。
そうすると、街全体が違って見えてきます。
「ここから世界へ台湾茶が輸出された」
「この建物は茶商が建てたものだった」
「この通りを茶葉が運ばれていた」
そんな歴史が想像できるようになります。
単なるレトロ街歩きではなく、
台湾が世界とつながった歴史を感じる散歩
になるのです。
まとめ|大稻埕は台湾茶の歴史を体感できる場所
大稻埕は茶葉の産地ではありません。
しかし、
- 台湾北部の茶葉が集まり
- 品質管理され
- 包装され
- 世界へ輸出された
台湾茶産業の中心地でした。
ジョン・ドッドによるFormosa Teaの輸出。
包種茶の発展。
日本統治時代の品質改良。
そのすべての歴史が大稻埕に集まっています。
次に迪化街を歩くときは、ぜひ茶行の前で立ち止まってみてください。
そこには雑貨店巡りやカフェ巡りだけでは見えない、
「台湾茶が世界へ羽ばたいた街」
という、もうひとつの大稻埕の姿があります。
台湾旅行2回目、3回目の人ほど、新鮮な発見があるはずです。




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